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Column

2011年5月1日更新

第2回「ニューオリンズ音楽の歴史」

ハロです。
第ニ回はずばり、「ニューオリンズ音楽の歴史」。ミシシッピ河のように、広大な歴史があります。
一度には語りきれないため、
今回はその概要を、主なジャズ史と、ニューオリンズジャズ史を比較しながら振り返りましょう。

1890-1910年代

「ミンストレル・ショー」

黒人を題材とした白人による音楽喜劇。専属作曲家フォスターによって「おお!スザンナ」などの名曲が生まれ、 アメリカ人の心のメロディーとなると同時に、黒人奴隷の存在が全米に認識される。

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「ラグタイム」

自動ピアノの普及の後に生まれた大衆音楽。「Maple Leaf Rag」等で知られるスコット・ジョップリンのメロディーが、ロールペーパーを通して大ヒット。

「ニューオリンズジャズ」

1897年、一大歓楽街「ストーリービル」がニューオリンズに誕生、1917年の完全閉鎖まで、昼夜ジャズ(当初は名も無き怪しい音楽)が溢れて、次第にその形式を整えていく。

1917年2月26日に、初めてジャズのレコードがVictorによってリリースされる。
Original Dixieland Jass Bandの”Dixie Jass Band One Step”と、 裏面には当時大流行したオノマトペ奏法(物の音や動物の鳴き声を楽器の音で模倣した奏法)を駆使した”Livery Stable Blues”その年の内に世界中にヒット、ミリオンセラーとなる。

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1920-1930年代

「シカゴ」

ストーリービル閉鎖の頃、職を失ったニューオリンズのミュージシャンがシカゴに流れ移り始める。1920年代にはシカゴで多くのジャズクラブが開かれる。

「カンサスシティ」

1920年代後半に誕生した、シンプルなリフを中心としたビッグバンドサウンド。

「スウィング」

世界大恐慌で、人々が癒しを求める中に生まれた軽快なダンスミュージック。レコードの普及により、演奏時間に制限が設けられ、また観客もレコードの演奏を期待するようになる。その為、アドリブよりもアンサンブルに重点が置かれる。

1940-1950年代

『モダンジャズ』

「ビバップ」

モダンジャズの起源にあたる。既存の音楽に飽きたジャズメンのセッションから生まれたとされ、ダンスのための音楽から、演奏することが目的となった音楽、聴くだけの音楽となった。

「クールジャズ」

1940年代後半、ビバップの反動として生まれた。ビバップが黒人寄りとすると、白人寄りの音楽と呼ばれたが、トランペット奏者マイルス・デイヴィスが創始者とされる。

これ以降の音楽は、ここでは割愛させていただきます。

19世紀、ニューオリンズの街は、複雑な要素が絡み合っていた。ヨーロッパ古典文化を基盤に反映してきたこの街に突然アフリカから数多くの黒人奴隷が加わる。

1860年南北戦争勃発、北軍の勝利により、1865年「奴隷解放」実施。

コルネット奏者バディー・ボールデン誕生(1868年ニューオリンズ)。 「初代ジャズ王」として、ディキシーランドジャズのスタイルを考案、歴史上最初のジャズバンドを結成するも、1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。

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1916年、Victorがトランペットの名手フレディ・ケッパードにレコーディングの申し込みをするが、自身のフレーズが他人に盗まれることを恐れた彼は拒否。 ODJBのメンバーは、イタリア移民2名、アイルランド移民1名、そしてイギリス移民2名のヨーロッパ移民バンド。

当時のアメリカには「メーソン・ディクソン・ライン」と呼ばれる南北の境界線があり、「ディキシーランド」とは、アメリカ南部を指す言葉であった。呼び名の由来は諸説あり、フランス統治時代の名残で、10フラン紙幣を指すディス(10)の響きからディキシーランドとなった説も有名。 今日では、白人による初期のジャズを「ディキシーランドジャズ」と呼ぶ人も多い。

ニューオリンズ出身の、キング・オリバー、フレディ・ケッパード、ジェリー・ロール・モートン、ジョニー・ドッズをはじめ、ジャズ史上初の白人ジャズバンドをリードしたトム・ブラウンらがシカゴジャズサウンドの基盤を築きはじめた。

「ジャズ王」ルイ・アームストロングは、1923年にシカゴに移り、活動を始める。

ジャズ発祥の街ニューオリンズでは、シカゴに行かなかった演奏家や、出戻りの演奏家たちが、普段は別の仕事をしながら(港湾荷役、郵便配達、仕立屋、警官、保険屋、靴磨きなど)、週末ミュージシャンとして、冠婚葬祭、パーティーなど、あらゆる機会で音楽活動を続ける。

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こうして地域に根づき、主流ジャズの歴史とは別の独特の発達をとげた音楽が、私達の呼ぶところの「ニューオリンズジャズ」。

以上、19世紀頃の音楽からモダンジャズが誕生した頃までの歴史を、簡単に振り返りました。
さて、「スウィング」時代の到来により、ニューオリンズ音楽は、忘れ去られたかのように思われましたが、
1940年代に、転機が訪れます。
ここからは、ニューオリンズに絞ってお話しましょう。

ニューオリンズジャズの再発見

1940年サンフランシスコ万博会場でディキシーランドジャズが演奏され、学生を中心とした若者の心をつかみ、突如ニューオリンズへの関心が高まる。ここから始まる40年代、特に第二次世界大戦後は、アメリカ内部で自国の音楽への関心が高まったとされている。

1944年、ジャズ研究家のウイリアム・ビル・ラッセルや熱心な愛好家、音楽学者によって、ニューオリンズがジャズの原点の姿を残すものとして「再発見」される。後にニューオリンズジャズ・リバイバルと呼ばれる、一大ムーブメントの幕開けである。

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トランペット:パンチ・ミラー
クラリネット:ジョージ・ルイス
バンジョー:エマニュエル・セイルス特にジョージ・ルイスは、1963年から何度も来日公演を行い、日本人ファンを熱狂させた。

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ピアノ:レスター・サンティアゴ
アルトサックス:ジョン・ハンディー
トランペット:キッド・ハワード
ドラム:アレックス・ビガード
バンジョー:ジョージ・ゲノン
ニューオリンズのプレイヤーたちについては、別の機会に追ってご紹介いたします。

写真のような、50代から70代の黒人音楽家による全米・欧州ツアーが、1960年代から1970年代にかけて人気を博し、地元ニューオリンズでも多くの演奏が録音される。

こうして花開いたニューオリンズジャズも、ポピュラー音楽の多様化とダンス音楽の衰退により、生活に根ざした音楽から、観光客向けの音楽へと変わっていく。往年のミュージシャンたちも徐々に姿を消していき、ニューオリンズジャズは途絶えてしまうかとも思われた。

そして現在へ…

1970年頃、ニューオリンズの治安は決して良くなかった。ストリートの犯罪や麻薬に手を出してしまう子供たちを救うべく、ギター、バンジョー奏者ダニー・バーカーらの熱意により、教会での音楽学校がスタートする。第一期の生徒にはトランペットのリロイ・ジョーンズ、第二期にはマイケル・ホワイトなどが在籍しており、こうした活動が、現代的センスを身につけた若演奏家の育成へと繋がる。

ここの出身であるダーティーダズン・ブラスバンド(1977年結成)は、ファンク、ソウルなど新しい音楽の要素を取り入れた音楽性を持ち、それに続き、トレメ地区の高校生で結成されたリバース・ブラスバンドなどとともに注目を集める。

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2009年春、
リバース・ブラスバンドに、初めてシットインさせてもらうハロ。
(Maple Leafにて)
こうしてニューオリンズの音楽精神は現在に受け継がれることとなる。
観光地フレンチクオーター内にはライブハウスが軒を連ね、町には昼夜問わず音楽が溢れている。
音楽葬をはじめとする、生活に根付いた演奏も続けられている。
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元祖ニューオリンズジャズが楽しめるプリザベーションホールは、観光客に人気のライブハウスである。
写真は、2009年秋、リロイ・ジョーンズのバンド。
いかがでしたでしょうか。ここまで辿るだけでも、かなりボリュームがありますね。
今回は、概要ということで、細かい部分をかなり割愛しました。
様々なエピソードや、ミュージシャン、レコードの紹介は、少しずつ追加させていただきます。See You Later, Alligator!! By ハロ